ガブリエル・フォーレ
作曲
1845 — 1924
1845年、フランス南部のパミエに生まれる。幼少時から音楽の才能を示し、礼拝堂のハーモニウムを何時間も弾いていたという。盲目の老女がその演奏をよく聴きに来ており、フォーレの父親に音楽の才能があることを伝えたという。
9歳の時にパリの音楽学校に入学。そこで教鞭をとっていたサン=サーンスと出会い、交友関係はサン=サーンスの死まで続いた。
11年の音楽学校生活を終えると、オルガニストや教師として活動する。この時期に作曲した作品で現存するものは少ない。
1871年に、サン=サーンスを代表として国民音楽協会が設立された際、そのメンバーに加わる。以降フォーレの作品は、同協会の演奏会で数多く初演されることになる。
1877年、ヴァイオリンソナタ第1番が成功を収め、作曲家として転機を迎えるかと思われたが、その後もレクイエムが不評に終わるなど、評価を得られない日々が続いた。
1896年、マスネの後を継いでパリ国立音楽院の作曲科教授となる。そこでラヴェル、ブーランジェなど多くの弟子を育てた。1905年には学長となり、以降15年の在任期間で、運営やカリキュラムの改革に携わった。20世紀へ入ると、彼自身の音楽も少しずつ評価され始める。
格調高い作風であるために、やや晦渋な印象があるが、今日ではレクイエムを始め、数多くの室内楽、また歌曲で、19世紀フランスを代表する作曲家と見なされている。
最後の10年ほどは聴力の悪化に悩まされ、1924年、肺炎によりパリで79年の生涯を終えた。