アルベルト・ヒナステラ
作曲
1916 — 1983
ブエノスアイレス生まれ。ウィリアムス音楽院に在学中の1930年、ストラヴィンスキーの《春の祭典》を聴いて感銘を受けた他、バルトークにも影響を受け、学生の時分から既にバレエ《パナンビ》op. 1 を書き始める。1941年に書かれたバレエ音楽《エスタンシア》はガウチョの生活や、パンパに住む人々を描いた民族色豊かな作品となっており、ヒナステラ本人はこの時期を「客観的ナショナリズム期」と位置付けている。1945年からアメリカ合衆国にてコープランドに師事し、「主観的ナショナリズム期」と呼ばれる時期に突入する。この時期には、アルゼンチンの文化やキャラクターを間接的に扱う作品を多く生み出した。その後ブエノスアイレスに帰り、留学での経験を元に、多くの指導を行う。ピアソラもヒナステラに師事した。
1958年からは、「新表現主義期」と呼ばれる作曲スタイルとなり、12音技法や微分音を南アメリカの民族的要素と結び付けて作曲するようになった。この時期の代表作には《魔法のアメリカ大陸に寄せるカンタータ》op. 27、オペラ《ボマルツォ》op. 34 などがあげられる。このオペラはショッキングな内容で、アルゼンチン政府はコロン劇場での上演を禁止した。
1968年からアメリカへ戻り、その後ジュネーヴに移住。再婚したチェリストの妻の影響を受け、チェロ・ソナタやチェロ協奏曲の作曲を積極的に行った。1982年に腹部の病気でジュネーヴの病院に2ヶ月間入院し手術を受け、その病床でピアノソナタ第3番 Op. 55 を作曲した。1983年始めには一時病状の回復を見せたが、1983年6月25日、ジュネーヴで67年の生涯を終えた。