ヨハン・セバスティアン・バッハ
作曲
1685 — 1750
今日の視点から振り返ると、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの音楽は終わりと始まりの両方を意味するものと言える。啓蒙主義以前の慣習として、音楽を神の栄光の手段としてとらえた最後の作曲家の一人として、バッハはドイツ語文化圏で数世紀ににわたり受け継がれてきた多声部音楽の伝統を頂点に到達させた。またその巨大な作品群によって、ヨーロッパにおけるドイツ音楽の優位性も確立する。こうして確立されたドイツの優位性は20世紀初頭まで続くことになる。
3世紀にわたって有能な音楽家を繰り返し輩出してきた家系に生まれたバッハは生前、作曲よりも演奏家としての能力に定評があった。アルンシュタット、ミュールハウゼン、ワイマール、ケーテンで教会や宮廷のオルガニスト、カペルマイスターを歴任し、1723年にライプツィヒのトーマスカントルに就任し、そこで生涯を閉じた。ライプツィヒで過ごした時間のほとんどは合唱曲に捧げていたと考えるのが普通である。実際、カンタータの半分以上と、現存する受難曲の原典版は、最初の7年間に書かれたものである。バッハの合唱曲の頂点と言える作品は、1727年に書かれ、1736年と1740年に改訂された最大の作品「マタイ受難曲」である。この作品は、ライプツィヒ時代にバッハが起こした革新の縮図であり、より親密な「聖ヨハネ受難曲」とは驚くほど対照的な作品である。
バッハは学生音楽団体の指導者として、多くのヴァイオリン協奏曲や鍵盤協奏曲の作曲、編曲を行った他、自らの作品の出版にも本格的に取り組み始めた。鍵盤楽器の名曲をまとめ、「クラヴィーア練習曲集」として出版した。鍵盤楽器の「パルティータ」、「イギリス組曲」、「フランス組曲」、「平均律クラヴィーア曲集」などがそれである。平均律のウェル・テンペラメントとは、演奏のたびに調律をし直すことなくすべての長調と短調に対応できるようになったばかりの鍵盤の調律システムのことである。プロイセン王フリードリヒ大王のために書かれた「ゴールドベルク変奏曲」と《音楽の捧げもの》において、バッハは、新たな調性を追求しながら、さまざまな鍵盤スタイルや対位法の技法を披露している。また、死後未完成のまま残された《フーガの技法》、「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」、「無伴奏チェロのための組曲」についても同じことが言える。
晩年のバッハは、後世の人々を視野に入れながら、記念碑的作品であるロ短調ミサ曲の完成に力を注いだ。ミサ曲の多くは、バッハがドレスデンのカトリック宮廷に名誉職を申請した1730年代初頭にさかのぼる。しかし、バッハは1750年に亡くなる直前まで、このミサ曲の作曲を続け、音楽家として歩んだ人生の中で習得した、声楽と典礼様式の多くを網羅した壮大な作品を完成させた。バッハの生涯を飾るにふさわしい、西洋音楽における最高傑作のひとつである。しかし、バッハが60歳を迎える前の頃からその音楽スタイルは流行遅れとなり、彼の死後、多くの作品が忘れ去られてしまった。バッハが音楽史にその名を刻むようになったのは、それから100年後のことである。彼の作品は、インスピレーションと知性を統合する天才であった。