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パウル・ヒンデミット

パウル・ヒンデミット

作曲

1895 — 1963
1895年にドイツのハーナウに生まれた。音楽好きだった父親の影響で、幼少のころからヴァイオリンのレッスンを受ける。1908年フランクフルトのホッホ音楽院に入学し、19歳の時にフランクフルト歌劇場管弦楽団の奏者となる。その数か月後にはコンサートマスターを務めることになった。その傍ら室内楽ではヴィオラ奏者としても活動する。 第一次世界大戦に従軍後の1919年、ショット社との契約を皮切りに、歌曲、ピアノ曲、弦楽曲など幅広いジャンルの作品を発表する。また、自動楽器を作曲に導入した先駆者でもあった。1921年 (または22年) に初演されたオペラ《殺人者、女たちの望み》は多くの聴衆を驚かせ、スキャンダルを巻き起こした。当時の重要な作曲家の一人として評価され、1927年にはベルリン音楽大学で作曲家の教授に就任。その後も交響曲《画家マティス》(1934年) の初演が大成功するなど、作曲家・演奏家として名声を獲得した。しかしナチスによって「退廃音楽」と位置付けられると、ヒンデミットの楽曲の演奏は禁止され、ベルリン音楽大学の職もあきらめざるを得なくなった。他の多くの芸術家と同じく彼も亡命を選択し、スイスを経てアメリカに渡った。 1942年にはイェール音楽大学の教授に就任した。 1953年にスイスへ戻ると、そこで1963年に亡くなるまで作曲を続けた。教師としての経験から音楽理論や作曲法の著作も多く残している。