サミュエル・バーバー
作曲
1910 — 1981
サミュエル・バーバーは、20世紀アメリカの代表的作曲家の中で最も保守的でヨーロッパの影響を受けた作曲家である。しかし彼の表現の幅は、一般に知られるよりもはるかに広い。ペンシルベニアで過ごした幼少期に作曲を始め、9歳で作曲家になることを決意した。14歳でフィラデルフィアのカーティス音楽学校に一期生として入学。伝統にこだわるイタリア人のロザリオ・スカレロから作曲を学んだ他、声楽も学んだ。この音楽学校で出会ったイタリア出身の作曲家で脚本家のジャン・カルロ・メノッティは長年のパートナーとなる。1935年には、毎年30人ほどのさまざまな出自のアーティストを支援するアメリカン・アカデミーの会員になった。新古典主義、特にイーゴリ・ストラヴィンスキーの作品に影響を受けながら、ジャズの要素などアメリカの現代的な音響形式を自らの音楽に取り入れた。
1936年夏、オーストリアにおいて、唯一の弦楽四重奏曲を作曲。魂のこもった緩徐楽章を1938年に弦楽オーケストラ用に編曲した。名指揮者アルトゥーロ・トスカニーニによって初演された《弦楽のためのアダージョ》で世界的知名度を得てからは、歌手、合唱指揮者、教師としての活動をやめ、ほぼ作曲に専念することになる。さまざまなジャンルの作品を手がけ、2つの交響曲のほか、数多くの管弦楽曲も書いている。ヴァイオリン協奏曲、チェロ協奏曲、ピアノ協奏曲、声楽曲も芸術家や聴衆に人気を博した。歌手としての鍛錬も積んだバーバーが声楽曲の作曲も幅広く手がけたことはありがたいことである。歌曲の他、バリトン、聖歌隊、オーケストラのための《恋人たち》が特によく知られる。
バーバーの作品の中で重要な位置を占めるのは、やはりオペラと舞台作品である。オペラ《ヴァネッサ》、短編オペラ《ブリッジ遊び》、バレエ《メデアの瞑想と復讐の踊り》に加えて、国際的に有名になったのは《アントニウスとクレオパトラ》である。この舞台劇は、ニューヨークのリンカーン・センターの依頼により作られ、1966年9月のメトロポリタンオペラの新社屋落成式で初演された。このオペラが失敗し、うつ病とアルコール依存症を発症したが、最期まで作曲を続けた。20世紀を代表する調性音楽の作曲家として知られ、古典派やロマン派の和声を好んだ彼は、多くの聴衆を獲得した。