フランツ・リスト
作曲
1811 — 1886
フランツ・リストは、カリスマ的ショーマンでありながら、深い精神性を持った人物であった。目もくらむような傑作から実験的な作品まで多岐にわたるその音楽は、今日も聴衆を挑発し続けている。これほど複雑な人生を歩み、華やかであると同時に矛盾した評判を得、影響力のある作品を残した音楽家は稀である。
リストは早くから将来を嘱望され、9歳で協奏曲デビューを果たした。1年後にウィーンに移り、14ヵ月間、作曲家でピアニスト、またかつてベートーヴェンの弟子でもあったカール・ツェルニーに師事し、ピアノのテクニック、暗譜、読譜を徹底的に学んだ。その技術は後に彼を伝説の人物とするものとなった。20代前半までに、リストはロマン派の大物たちに囲まれ、エクトル・ベルリオーズ、フレデリック・ショパン、ヴィクトル・ユーゴー、オノレ・ド・バルザック、ウジェーヌ・ドラクロワなど、多くの人物と個人的に親交を持った。しかし、最も大きな影響を与えたのは、ヴァイオリニストのニコロ・パガニーニである。並外れた技術と魅力的なステージマナーによって、カタルシス的表現をしていたパガニーニを手本に、リストはピアノの技巧に磨きをかけ、それまで想像もつかなかったような難度、複雑さを克服し、新たな輝きと響きを獲得した。また、彼が演奏していたエラールのピアノの性能が向上したこともこうした探求を促進した。
その演奏に特別なオーラがあるとの評判が立ち、リストは大ホールでピアノ独奏のみで行うピアノの「リサイタル」を史上初めて開催することとなった。彼の演奏は、目もくらむようなショーマンシップや圧倒的な技術力もさることながら、苦悩に始まり恍惚に至るまであらゆるものを表現して聞かせることが最大の印象を与えていた。身体の動きや表情もそこに大きな役割を果たしていた。1848年、リストはワイマールのカペルマイスターに就任し、この地で交響詩の大部分と、最高傑作とされるロ短調のソナタの作曲し、初演を行った。また彼は伝統的な抽象形式よりもプログラム音楽を好むいわゆる「新ドイツ派」であったベルリオーズやワーグナーの音楽を支持した。1861年にワイマールを離れたリストは、ローマ・カトリック教会の修道院長となり、その後はローマ、ブダペスト、ワイマールを行き来しながら、作曲と教育に力を注いだ。
リストの音楽は、19世紀屈指の華やかさを誇る。多くの作品が複数のヴァージョンで存在することは、演奏と作曲の両面におけるリストの狂想曲的アプローチの表れである。また、「パガニーニによる大練習曲」や「超絶技巧練習曲」などの練習曲は、それまで不可能とされていたピアノ技術を可能にし、幅広いピアノ作品は、技術力と表現力の両方を必要とする華麗なる傑作である。しかしリストの作品は華やかできらびやかなものばかりではない。《巡礼の年》や《詩的で宗教的な調べ》は内省的な側面を主とする作品である。後期のピアノ曲は、断片的な旋律、控えめなテクスチャー、曖昧なハーモニーを特徴としながらも聴き応えのある、謎めいた作品であり続けている。