モデスト・ムソルグスキー
作曲
1839 — 1881
1839年に生まれ、幼少からピアノのレッスンを受け始める。軍人を夢見て士官学校に通いながら、独学で音楽を学ぶ。バラキレブと出会い、作曲について助言を受けていた。1858年に軍隊を辞め、音楽に専念することを決意。しかし経済的な安定を得ることができず、ピアニストとして活動する傍ら、官吏として働く。
1865年に母親が没して、作曲家としても成功しない日々が続くと、アルコール依存症が深刻な状態となる。このころ作曲した歌曲《ゴパーク》や《かわいいサヴィシナ》が初めて自力出版される。時を同じくして歌劇《禿山の一夜》の初稿も完成されたが、バラキレフに指揮を拒まれ、ムソルグスキー存命中の演奏は叶わなかった。
1868年には歌劇《結婚》の作曲を試み、日常的な対話の抑揚を旋律で自然に表現するムソルグスキーの手法を確立した作品とみなされているが、途中で作曲が放棄されている。ムソルグスキーはこのほかにも多くの未完作品を残している。
その後、歌劇《ボリス・ゴドゥノフ》を完成させ、1874年に初演されたが、これを頂点に、ムソルグスキーは転落の人生を歩む。35歳で《展覧会の絵》を作曲するものの、その後も酒量が抑えられることはなく、親しい人の死も重なって、精神的に不安定さを増していった。
1880年に公務員の地位を追われ、翌年に心臓発作に見舞われると42歳で死去した。