カール・ニールセン
作曲
1865 — 1931
ニールセンはデンマークで1865年に生まれた。家は貧しかったが、父親が楽団でヴァイオリンを弾いていたため、音楽と触れ合う機会は多かった。しばらく父からレッスンを受けていたが、14歳でトランペット奏者として軍楽バンドに入る。コペンハーゲンの大学で学んだ後、デンマーク王立管弦楽団で第2ヴァイオリン奏者として活動した。この期間に、交響曲第1番 (1892年) の初演も行った。
しかし、ニールセンのキャリアと生活は決して簡単なものではなかった。彫刻家アネ・マリーイと結婚したものの、荒んだ結婚生活を送ることになる。このような私生活の困難は、たびたび作品にも反映されている。
音楽家としても認知度が十分とは言えない日々が続き、経済的にも安定しなかった。独自の和音進行や金管楽器の役割が斬新な6つの交響曲、初演で酷評された歌劇《サウルとダヴィデ》(1902年)、カンタータや晩年のフルート協奏曲 (1926年)とクラリネット協奏曲 (1928年)などの作品は、今でこそ重要なレパートリーに数えられるが、当時は大きな成功に恵まれなかった。
死の直前に、それまで教員として勤務していたデンマーク音楽アカデミーの学長に就任したが、1931年心臓発作のため66歳で世を去った。亡くなった後に徐々に作品の人気が高まり、大衆向けの歌曲はデンマークの学校などで今でも広く普及している。