ダヴィッド・オイストラフ
ヴァイオリン、編曲、編作、カデンツァ
1908 — 1974
1908年にウクライナのオデッサで生まれたダヴィッド・オイストラフは、20世紀の最も偉大なヴァイオリニストの一人である。完璧に楽器を操った彼は、どんな難易度の高いテクニックにも動じず、常に楽々と流暢に演奏しているような印象を与えた。作品の大きな流れや、作品の構造が描く弧に絶えず焦点を当てた彼は、熱烈な感情と古典的な清らかさの拮抗を見事に統合させた。この包括的な芸術的視点によって、オイストラフは、バッハ、モーツァルト、ベートーベン、ブルッフの作品からも、ストラヴィンスキー、ヒンデミット、プロコフィエフの作品からも、同等に魅力的で説得力のある演奏を引き出し、名盤を残すに至った。
オイストラフの音楽的個性に最も深い影響を与えたのは、彼が13年間師事した唯一の師、ピョートル・ストリヤルスキーである。優れた同門に、ナタン・ミルシテイン、レオニード・コーガン、オイストラフの息子イーゴリがいる。イーゴリも著名なヴァイオリン・ヴィオラ奏者だった。ストリヤルスキーの教師としての強みは、技術的な基礎を授けるというよりはむしろ、ヴァイオリンへの真の愛情を育ませる点にあり、全ての生徒が夜明けから夕暮れまで楽器を肌身離さず持ち歩くべきだと主張した。オイストラフは、1937年に28歳でブリュッセルのウジェーヌ・イザイ・コンクール(後のエリーザベト王妃国際音楽コンクール)で優勝する前に、既に権威あるベテラン指揮者たちと共演していた。翌年、オイストラフはミャスコフスキーから協奏曲ニ短調を捧げられた。1940年にはハチャトゥリアンから協奏曲ニ短調を献呈されており、オイストラフは同曲の第1楽章のカデンツァを自ら書いている。彼のために作曲された他の主要な作品として、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲2曲およびソナタと、プロコフィエフのソナタ2曲が挙げられる。
オイストラフの演奏を特徴付ける、ぬくもりのある豊潤な音色は、伝説的ヴァイオリン奏者フリッツ・クライスラーを意識し範としている。実際オイストラフは、学生時代にクライスラーの録音を何よりも敬愛していた。ストラディヴァリウスと抜群の相性を誇ったオイストラフは、そのキャリアを通じて10挺(大半はソヴィエト連邦の国有楽器)を様々に用いた。そのうち最も有名な1705年製の「マルシック Marsick」は、かつて有名なベルギー人ヴァイオリン奏者マルタン・ピエール・マルシックが演奏していたワンピース・バック(一枚板)の名器で、オイストラフは後に息子に遺譲した。オイストラフのゆとりある左手のテクニックは、一つには彼の巨大で柔軟な手と肉付きの良い指に起因する。左指を無理なく大きく広げ、通常は厄介な奏法をも自然にこなすことで、彼特有の丸みを帯びた音色を手にすることができたのである。オイストラフは、その比較的に緩やかなヴィブラートのペースを滅多に変えることはなかったが、このテクニックを極めてセンスよく用いた。時には、ヴィブラート無しにフレーズや強弱を微妙に変化させるような現代的なアプローチを取ることさえあった。弓の持ち方は流動的かつ臨機応変で、同時代の奏者たちの間で主流だった比較的に力強い握り方よりも、いっそう柔軟だった。彼は、鋭いスタッカートや堅いマルカートを演奏する時でさえ、左手の筋肉を極めてしなやかに保っていた。オイストラフが最も愛用した弓は、名高いドイツの製作者アルベルト・ニュルンベルガーが手がけたもので、クライスラーが特に好んだ弓として知られている。
オイストラフは、どこで演奏しても称賛され、他の演奏家たちからも敬われていたが、謙虚な心を持ち続け、他の何にもまして音楽を重視した。彼は、既に数え切れないほど何度も演奏した曲であっても、絶えず楽譜を開いて解釈に磨きをかけ、複雑な装飾音やフィンガリング(運指)をより優美に奏でるための技術的解決策を見出そうとした。彼にとってテクニックは目的ではなく、より深く音楽的な真実に迫るための手段だった。皮肉なことに、オイストラフの度を越した音楽への渇望は、彼の早すぎる死をもたらした。 1964年、彼は心臓発作を起こした直後にレニングラードの公演に客演指揮者として出演し、そのまま苛酷なコンサート・スケジュールをこなし、最期まで後進の指導に励んだ。 1974年10月、66歳のオイストラフはアムステルダムで一連の演奏会を終えた直後に2度目の心臓発作を起こして亡くなり、音楽界に強い衝撃を与えた。