イーヴォ・ポゴレリチ
ピアノ、器楽
伝説的な地位を築いたピアニスト、イーヴォ・ポゴレリチは、その比類のない才能と革新的なアプローチによって、今日の最も独創的な音楽家の一人とみなされている。彼の示唆に富んだ解釈は、ピアノ演奏の新たな規範を設けながら、ピアノ音楽の地平と理解を広げてきた。 40年以上にわたる演奏活動の中で、彼は妥協のない芸術的基準を掲げ、献身的に音楽表現の理想を追求することによって、真の偉業を成し遂げ、聴衆からも批評家からも高く評価されている。
クロアチア人コントラバス奏者を父に持つポゴレリチは、1958年にセルビアのベオグラードで生まれ、7歳でピアノを弾き始めた。10歳でソロ・コンサート・デビューを果たし、12歳の時に国家奨学金を得てモスクワに留学した。4年後、モスクワ中央音楽学校を卒業してモスクワ音楽院に進学し、エフゲニー・ティマキン、ヴェラ・ゴルノスターエヴァ、エフゲニー・マリーニンに師事した。しかしながら、ポゴレリチの人生に新しい方向性をもたらし、約20年以上にわたり彼の音楽作りに影響を与えた人物アリザ・ケゼラーゼに出会うのは、1977年になってからである。モスクワで開かれたパーティーで出会ったポゴレリチとケゼラーゼは、音楽家として熱烈で実り多い関係を築いた。ロシア・ピアノ楽派の根底にある西洋の伝統の基礎を彼女から学んだポゴレリチは、様々な世代の傑出したピアニストたちの演奏から得られた知識を身に付け、自身のテクニックを再び見直した。
ポゴレリチは1978年、ソリストとしてドゥブロヴニク祝祭管弦楽団とともにアメリカで2ヵ月のツアーを行い、演奏活動を活発化させた。その後、イタリアのテルニで開催されたアレッサンドロ・カサグランデ国際ピアノ・コンクールで優勝。2年後の1980年にモントリオール国際音楽コンクールでも優勝した。やがて彼は、大きな物議を醸す独特な演奏によって、そしてクラシック音楽の従来のファン層をはるかに超える幅広い聴衆を魅了することによって、音楽界を席巻することになる。この1980年は、ポゴレリチにとって公私ともに重要な年だった。彼が21歳年上のケゼラーゼと結婚した年であり、ワルシャワのショパン国際ピアノ・コンクールに挑んで一躍、世界にその名を知らしめた年でもあったからである。このコンクールで、彼は十分に理由が説明されないまま予選落ちした。数名の審査員が彼の落選に不満を示し、そのうちの一人であったピアニストのマルタ・アルゲリッチは、「彼は天才よ」と述べ、抗議のため審査員を辞任した。このニュースは瞬く間に世界中に広まり、彼のもとに世界中から出演オファーが殺到した。ショパン・コンクールの優勝者と契約を結ぶことを伝統としていたドイツ・グラモフォンは、コンクールに敗れた彼が、ほどなく傑出したピアニストになることに望みをかけた。当然ながら、ドイツ・グラモフォンは新しいスターとのアルバム第1弾をオール・ショパン・プログラムとした。
ポゴレリチは、その型破りな演奏、驚異的な技術、そして作品解釈をめぐる斬新なアプローチにより、類まれな能力と現代的な精神を兼ね備えたピアニストとしての定評を得た。ヨーロッパ、北米、オーストラリア、日本を舞台に旺盛なコンサート活動を開始した彼は、1981年にニューヨークのカーネギー・ホールにデビューし、以来、世界各地の一流コンサート・ホールでセンセーショナルなリサイタルを行ってきた。これまで、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ロンドン交響楽団、ボストン交響楽団、シカゴ交響楽団、ニューヨーク・フィルハーモニック、ロサンゼルス・フィルハーモニック、チューリヒ・トーンハレ管弦楽団、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団など、名高いオーケストラと共演している。
40年もの間、世界を舞台に多様で充実した演奏活動を続けてきたポゴレリチは、人道的活動や若手音楽家の支援などを通じて積極的に社会に関与している。彼は1986年にザグレブで青年音楽家基金を設立し、若手音楽家たちの海外留学を経済的に支援している。1988年、クラシック音楽家としては初めてユネスコ親善大使に任命される栄誉に浴した。1989年にはドイツのバート・ヴェーリスホーフェンでイーヴォ・ポゴレリチ国際音楽祭を設立し、9年間、国際的な活躍を目指す多くの若手音楽家、アンサンブル、オーケストラを支援した。1993年、カリフォルニア州パサデナでイーヴォ・ポゴレリチ国際ソロ・ピアノ・コンクールを創設。2016年、カーネギー・ホールのマンハッタン国際音楽コンクールは、ポゴレリチに敬意を表し、彼を名誉プレジデントに任命した。