コンテンツ一覧に移動する
セルゲイ・プロコフィエフ

セルゲイ・プロコフィエフ

作曲

1891 — 1953
セルゲイ・プロコフィエフは、早熟な悪戯っ子から若き熱狂的モダニストへと成長し、ついにはソビエト・ロシアの芸術的激動に見られた深い情緒のバロメーターを成すようになった人物である。20世紀で最も独創的な人物の一人であり、決して空虚なマニフェストではなく新しく独創的な旋律を信条としたプロコフィエフは、不朽のテーマをいくつも生み出した。 プロコフィエフは幼少の頃、家族の誕生日や聖名祝日に短いピアノ曲を書いていた。13歳でサンクトペテルブルク音楽院に入学すると、これらの小品は初めて作品として出版されることとなった。初のオペラを作曲したのはわずか10歳のときである。その17年後に再び作曲したオペラでは成熟味が見て取れる。ドストエフスキーの熱のこもった小説をもとにした《賭博者》は、音楽的にムソルグスキーの影響を受けている。同じ頃、プロコフィエフはバレエも探求していた。最初に書いたのは《アラとロリー》という原始的なバレエ音楽だったが、これはストラヴィンスキーの《春の祭典》に非常に似通ったものであった。臆することなくこの作品を演奏会向けに書き直し《スキタイ組曲》としたプロコフィエフは、ロシア国内でスキャンダルと成功の両方を味わった。 プロコフィエフはピアニストとしても才能があり、その腕前でも衝撃を与えていた。ピアノ協奏曲第1番は、保守的な批評家たちから「サッカーのようだ」と揶揄された。第2番は非常に演奏の困難な第1楽章のカデンツァを含む壮大な曲で、何十年もの間、弾きこなすことができたのは彼と他の数人のピアニストのみであった。ほとんどロシア国内に限られていた成功は1917年の革命で突然終わりを告げた。政治的な混乱にもかかわらず、プロコフィエフは交響曲《古典》とヴァイオリン協奏曲第1番を完成させ、1918年の春、日本経由でアメリカへ旅立った。1923年にはパリを訪れ、当初は短期の滞在を予定していたが、1927年までは一度も母国を訪れることもなく、1936年まで住み続けた。 1930年代前半になると欧米での活躍の場がなくなり、母国と再び親交を持つようになった。新生ロシアではより旋律的で直接的なスタイルが通用すると感じるようになったプロコフィエフは1年の半分をピアニスト兼指揮者として西ヨーロッパとロシアでのツアーに費やし、残りの半分をソビエト連邦の国営作曲家養成所で過ごした。1935年夏、ボリショイ劇場の田舎の静養所において《ロミオとジュリエット》の草案が練られ、管弦楽用の作曲が行われた。ソ連から作曲のための時間を存分に与えられた彼は1936年、遂にソ連に身を委ねることとする。妻と2人の息子をモスクワに呼び寄せ、これまで通りの生活を送ることを想像していたが、彼は芸術を国家の統制下に置こうとするスターリンの意向を見誤っていた。 スターリンのもとでの緊迫した生活は、プロコフィエフの心身に大きなダメージを与えた。1945年には動脈瘤を患い、その後の生涯のほとんどの期間にわたって仕事をすることができなくなった。ヴァイオリン・ソナタ第1番、ピアノ・ソナタ第6番、第7番、第8番、オペラ《戦争と平和》など、この時期の彼の作品には、新たな深みと暗さが滲んでいる。晩年は、音楽の党派性から逸脱したため、見せしめの裁判に追い回された。1953年3月5日、スターリンと同じ日に、膨大かつときに不可解な音楽を遺して亡くなった。