フレデリック・ショパン
作曲
1810 — 1849
フランスに亡命したポーランドの民族主義者、フレデリック・ショパンは、公の場での演奏を嫌悪する音楽家であった。またピアノ作品にはベルカント・オペラの影響が見られる反面、バッハやモーツァルトを理想としていた。豊かな旋律がありながらも古典的な抑制の効いた、空想的でありながら緊張感のある彼の音楽は、彼をこの時代屈指の個性ある音楽家としていた。
1810年、ポーランド人の母とフランス人の父の間に生まれたショパンは、その優れたピアニストの才能を早くから認められ、専門的な指導をほとんど受けることなく、8歳で最初の演奏会を開いている。
1830年のポーランド動乱の後パリに移住したショパンは間もなく、パリの社交界からも、優れた教師としても、求められる存在となった。リスト、ベルリオーズ、メンデルスゾーン、ロッシーニ、ベリーニ、バルザック、ハイネ、ドラクロワなど、親しい友人や崇拝者たちの集まるサロンでのソワレで絶えず演奏していた。残された記録には、彼の演奏について、ルバート、リズム、音色の美しさなどの描写が見られる。彼の即興演奏の腕前は伝説的であり、多くの作品が、鍵盤の上で自然発生的に作られていた。当時のピアノ製造の発展に支えられつつも、彼は楽器の力のみによることなく、幅広い色彩、響き、柔らかさの限界に挑んでいた。リストと同様、ショパンは演奏者と楽器への要求を高め、ピアノ音楽に多大かつ永続的な影響を残した。ポーランド難民のための募金活動を目的に行われたロンドンでのコンサートを最後に、パリにて39歳の若さでこの世を去った。