アーロン・コープランド
作曲
1900 — 1990
コープランドは、ユダヤ系リトアニア人の移民の息子として、ニューヨークのブルックリンに生まれた。比較的遅くピアノを始めた後、15歳で作曲家になることを決意。21歳の時にフォンテーヌブローのアメリカ音楽院で名教師ナディア・ブーランジェーに知り合い、本格的に作曲家としてのキャリアをスタートする。
パリでストラヴィンスキーや六人組の影響を受けた後、1924年に米国に帰国。当初ジャズ的要素を取り入れた作品を多く書いたが、やがてアメリカ民謡、南米のリズムに取材した簡明な作風を示すようになる。これらの要素は、《ビリー・ザ・キッド》(1938年)、《ロデオ》(1942年)、《アパラチアの春》(1944年) 等のバレエ音楽に表れている。また《エル・サロン・メヒコ》(1936年)、市民のためのファンファーレ (1941年)、交響曲第3番 (1946年) 等の管弦楽作品、映画音楽でも大きな成功を収めた。
1930年以降は、シェーンベルクの12音音楽技法にも関心を示すが、今日の視点からすると、アメリカ的音楽語法の確立に務めた作曲家と認識されている。指揮、著述、音楽評論でも実績を残し、教師として後進の育成にも従事。レナード・バーンスタインは、書き手として彼から大きな影響を受けたが、同時にコープランドの最も優れた解釈者とも目されている。晩年は、アルツハイマー病を発症したことも関係して寡作となり、1990年に90歳の高齢で亡くなった。