クロード・ドビュッシー
作曲
1862 — 1918
作曲の際どのような規則に従っているかを、パリ音楽院の事務官に問われたとき、"Mon plaisir!"(自分の好み!)だと気さくに答えたというドビュッシー。彼にとって音楽はリズム、ハーモニー、テクスチャー、色彩の多くの多様性から有機的に発展するものであった。ストラヴィンスキーやシェーンベルクのような教訓的な革命家ではなく、一瞬のひらめきを形にしたような作品を書いているが、出版社向けに送った作品の多くは、完成までに数ヶ月から数年を要している。
ドビュッシーは当初から正統派との間に葛藤を抱えていた。商店経営者と裁縫師の息子として生まれた彼は、7歳になるまで本格的な音楽の訓練を受けたことがなかった。しかし3年もしないうちに彼のピアノ演奏は高度な水準に達し、パリ音楽院の門を叩くことになった。しかし、同校伝統の長く暗い廊下を歩く彼は決して幸せではなかった。チャイコフスキーのパトロンであったナデージダ・フォン・メックの家で過ごしたロシアでの生活では、チャイコフスキーから初期のピアノ小曲の内の1曲についてほとんど価値を見いだせないと言われるなど、心の休まらない時を過ごした。1884年、22歳のとき、音楽院の名誉あるローマ賞を受賞しイタリアの首都ローマで学ぶ権利を得たことで事態は好転したように見えたが、ドビュッシーにとってこの賞はむしろ懲役刑のように感じられるものであった。
1889年のパリ万国博覧会で極東の音楽に触れたドビュッシーは、新たな表現の可能性を手に入れた。ピアノのためのアラベスクや小組曲の繊細な魅惑により、伝統的な作曲の規則が解消されていった。このことが最初に見て取れるのが、1890年のベルガマスク組曲の《月の光》や、より洗練された1893年の弦楽四重奏曲の緩徐楽章である。しかし、ドビュッシーは、彼の最初の議論の余地のない傑作のひとつである管弦楽曲《牧神の午後への前奏曲》で、まったく新たな領域に達した。この前奏曲では音色が音楽のコンセプトの重要部分を占めている。この作品にあまりに圧倒的なものがあったため、その後10年間、ドビュッシーが完成させた主要作品としてはわずかに1899年の3つの管弦楽曲《夜想曲》、ワーグナーの影響を受けたオペラ《ペレアスとメリザンド》、3つの《ビリティスの歌》、ピアノのための2つの組曲《ピアノのために》と《版画》を数えるのみである。
これらの作品が重要なものであることは、今となっては疑う余地もない。しかし、当時のドビュッシーは作曲による収入が少なく、経済的にはまだ友人や後援者に頼っていた。「ムッシュー・クロシュ(ミスター震え声)」というユーモラスなペンネームで、さまざまな出版物に音楽評論も書くようになった。一方、女性関係は悪化の一途をたどっていた。女性関係を繰り返した末、彼は不安定な若いモデル、ロザリー・"リリー"・テクシエと結婚した。この結婚は大惨事となり、その後ドビュッシーがエマ・バルダック(ガブリエル・フォーレの元愛人)と熱愛に発展すると、テクシエは未遂に終わったもののコンコルド広場で胸を撃ち自殺を図った。
1914年、作曲家としての絶頂期にあったドビュッシーに癌が発見された。手術で衰弱し、1年近くほとんど作曲を行うことができなかった。しかし死を前にしてフルート、ヴィオラ、ハープのための室内楽ソナタ(1915年)、チェロのための室内楽ソナタ(1915年)、ヴァイオリンのための室内楽ソナタ(1917年)の3曲(予定6曲中)を発表し周囲を驚かせる。、次世代のフランス人作曲家の糧となる新古典主義の形で再び創造的な飛躍を遂げようとするに見えたドビュッシーであったが、1918年3月25日の夜、眠るように安らかに息を引き取った。