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マウリツィオ・ポリーニ

マウリツィオ・ポリーニ

ピアノ

1942 — 2024
比類ない洗練、揺るぎない集中力、妥協のない誠実な音楽作りによって高い評価を得ているマウリツィオ・ポリーニは、今日の偉大なピアニストたちの中でも格別な地位を占めている。『グラモフォン』誌は彼の「音楽家としての卓越した存在感」を称えたが、この言葉は、60年にわたり彼の芸術の魅力と美に対して批評家や聴衆から寄せられてきた賛辞によって裏付けられる。ポリーニの気品ある表現、鍵盤を制御する完璧な技術、限りなく多様な音の陰影と抑揚を創り出す能力が、過去と現代の作品に深い洞察を示す彼の演奏を支えている。 ポリーニは、1942年ミラノ生まれ。芸術と音楽は、幼少時代の彼を自然に取り巻いていた。 ヴァイオリン演奏を得意とした彼の父は、イタリア初のモダニズム建築家の一人であり、彼の母は熟練のピアニストで声楽もこなした。彼の伯父ファウスト・メロッティはイタリアを代表する彫刻家で、抽象芸術のパイオニアであり、熱心なアマチュア・ピアニストでもあった。ポリーニは5歳の時にピアノを始め、カルロ・ロナーティから最初のレッスンを受けた。9歳の時に公の場で初めて演奏し、その後数年間、幾度か舞台に立った。 二人目の師カルロ・ヴィドゥッソからの勧めで、ポリーニは1956年にミラノでリサイタルを開き、ショパンの練習曲集を弾いて成功を収めた。これらの難曲を学ぶ実践的な経験は、10代のポリーニが完璧なテクニックを身に付ける基礎となった。4年後、18歳の彼はワルシャワの第6回ショパン国際ピアノ・コンクールの覇者となり、世界の注目を集めた。この優勝により事実上、彼の国際的なキャリアがスタートしたが、彼自身はピアニストとしてのさらなる研鑽の必要性を感じ、ほぼ2年間、公の舞台から退くことを選んだ。伝説的なピアニスト、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリに師事したポリーニは、ベートーヴェン、シューマン、ブラームスの音楽の習得に没頭した。 1960年代に舞台に戻った彼は、当初の狙い通り、その成熟した質の高いピアニズムによって聴衆と批評家を驚かせた。友人クラウディオ・アバドとは生涯にわたる密なパートナーシップを築いた他、ピエール・ブーレーズやルイジ・ノーノらとの協力関係を次第に深めていった。芸術が社会変革の原動力であるという個人的な信念をもつポリーニは、1960年代後半および1970年代に、左派の政治活動に触発され、ミラノ・スカラ座とイタリア全土で開催された学生と労働者のための演奏会に参加した。 ポリーニは、1972年にドイツ・グラモフォンから自身初のスタジオ録音によるアルバムをリリースし、センセーションを巻き起こした。彼によるストラヴィンスキーの《ペトルーシュカからの3楽章》とプロコフィエフのピアノ・ソナタ第7番の演奏録音は、20世紀音楽の演奏の新たな模範となった上、幅広いレパートリーを探求してくのだという彼の意志をも示した。以来、ポリーニはDGの専属録音アーティストであり続け、類まれな深みと幅広さを誇るディスコグラフィを築いていった。その内容は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集やショパンの多数の作品から、ブーレーズ、ノーノ、シェーンベルク、ヴェーベルンまで、極めて多岐にわたる。 ポリーニは、1995年のザルツブルク音楽祭で独自のコンサート・シリーズを企画し、自ら演奏した。彼の多彩な音楽的嗜好が反映されたプログラムは、ジェズアルドやモンテヴェルディから現代音楽までと幅広く、室内楽とオーケストラの演奏を含む内容だった。その後10年にわたり、彼は自身のプロジェクト「ポリーニ・パースペクティヴ」を発展させていく。これは新作委嘱や音楽史上画期的な作品を取り上げる演奏会シリーズであり、世界各地の聴衆に向けて、ニューヨークのカーネギー・ホール、パリのシテ・ド・ラ・ミュジーク、ローマのパルコ・デラ・ムジカなどで催されてきた。 録音では、アルバム『ショパン:夜想曲集』が2006年のグラミー賞 (最優秀器楽ソロ部門、オーケストラ無し) に輝いた。ポリーニに贈られた数々の名誉あるレコード賞や他の賞の例として、アルバム『ベートーヴェン:ディアベッリ変奏曲』に授けられたディアパゾン・ドール賞、グラモフォン・ホール・オブ・フェイム (『グラモフォン』誌の栄誉殿堂) への選出、エルンスト・フォン・シーメンス音楽賞、高松宮殿下記念世界文化賞、ロイヤル・フィルハーモニック協会の器楽奏者賞が挙げられる。2024年、82歳で逝去。