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ジャコモ・プッチーニ

ジャコモ・プッチーニ

作曲

1858 — 1924
1858年、トスカーナのルッカで生まれる。プッチーニ家は代々続く宗教音楽家の家系で、プッチーニもパチーニ音楽院に通い、初めはオルガン奏者として教会に勤務した。1880年には「4声のミサ曲」を作曲し、この作品の一部は後に歌劇に転用されている。 やがて彼は、《アイーダ》を聴いてオペラの魅力に開眼し、オペラ作曲家を志すようになる。1880年には、ミラノ音楽院に入学。第1作《妖精ヴィッリ》、第2作《エドガール》は不成功だったが、3作目の《マノン・レスコー》(1893年) では、一気に脚光を浴びた。台本を担当したルイージ・イッリカとジュゼッペ・ジャコーザの2人とは、この後も《ラ・ボエーム》(1896年)、《トスカ》(1900年)、《蝶々夫人》(1904年) で共作している。 プッチーには、ヴェリズモ・オペラ特有の直接的な感情表現に加え、色彩豊かなオーケストレーションと豊かなメロディーによって、その後も成功を重ねる。メトロポリタン歌劇場では《西部の娘》(1910年)、ウィーンのカール劇場では《つばめ》(1917年) を初演したが、この時期の作品には、以前のような完成度が欠けている。 1918年には、《3部作》の題名で3つの1幕ものオペラ (《外套》、《修道女アンジェリカ》、《ジャンニ・スキッキ》) を発表。1924年に《トゥーランドット》を作曲中に死去。未完に終った同作は、フランコ・アルファーノにより完成され、1926年にミラノで初演された。