アレクサンドル・スクリャービン
作曲、ピアノ
1872 — 1915
モスクワで貴族の家庭に生まれたスクリャービンは、幼児期からピアノを始め、モスクワ音楽院に進学。サフォーノフにピアノを、アレンスキーに作曲を師事する。同級生のラフマニノフとともに、ヴィルトゥオーゾのピアニストとして有望視されていた。
1891年ごろベリャーエフと出会い、その親交は生涯に渡ることとなる。ベリャーエフ出版社から定期的に作品が出版され始め、作曲家としての地位を確立していった。この頃には、主にピアノの小品やピアノ協奏曲、交響曲などが生み出されている。ショパンを敬愛し、練習曲や前奏曲、マズルカといった形式を踏襲したのみならず、1900年頃までは、音楽的スタイルにも影響を受けている。交響曲第3番《聖なる詩》でこの時期の作風の頂点に達した後、ロマン派の影響を脱して、作風は神秘主義的なものと変化していく。交響曲第4番《法悦の詩》と交響曲第5番《プロメテ - 火の詩》、そして10曲のピアノ・ソナタは、ロシアの後期ロマン派が現代への門戸を開くきっかけとなった。《プロメテ - 火の詩》では、鍵盤を押すとそれに応じて色の付いた光が放射される「色光ピアノ」(クラヴィエ・ア・リュミエール)を用いて、聴覚と視覚との統合芸術を目指した。
スクリャービンはさらに《神秘劇》と呼ばれる、マルチメディア的(演奏不可能と思われる)作品を企図していたといわれるが、未完のまま、43歳の若さで敗血症のため突然の死を遂げた。