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フェリックス・メンデルスゾーン

フェリックス・メンデルスゾーン

作曲

1809 — 1847
フェリックス・メンデルスゾーンは音楽の才能に恵まれていた。12歳のとき、その鍵盤テクニックで文豪ゲーテを驚かせ、3年後、師カール・ツェルターに「巨匠」かつ「バッハ、ハイドン、モーツァルトの兄弟分」と言わしめ、爽快なテーマを書く才能はすでに表出していた。見事に独創的なテクスチャーを構築する能力を持ち、音楽の形式にも精通していた。裕福でありながら派手なところのないベルリンの家庭で、3人の兄弟と共に規律と自己啓発を奨励されて育った。両親は子供たちに厳格で包括的な教育をする意思を強く持っていた。 メンデルスゾーンが初めてソナタ、フーガ、1幕の喜歌劇《兵士の恋》を作曲したのは、彼が10歳になった1820年のことである。以来彼はゼルターの指導のもと、両親から教えられた習慣を守りながら、バッハ、モーツァルト、ハイドン、ヘンデルの音楽を学び、同世代で他に類を見ないほど技術を熟達させ、多くの作品を作曲した。バロック音楽の対位法から古典派のソナタまで、その技巧は多岐にわたる。 メンデルスゾーンは、大人になっても落ち着きがなく、熱狂的なスピードで人生を送った。作曲、ピアノやオルガンの演奏のほか指揮者としても活躍し、1835年からは、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスターを務めた。ハイドン同様メンデルスゾーンもイギリスでは王室や一般大衆から慕われ、1842年には若き日のヴィクトリア女王に交響曲《スコットランド》を献呈している。19世紀で最も成功したオラトリオ《エリア》は、イギリスでのメンデルスゾーンの成功の証となったが、1840年代初頭、その休みない活動には代償が伴った。1847年、10回目、最後の訪英を行う頃には疲弊し病弱になっていた。その翌月に才能ある作曲家であった最愛の姉ファニーを亡くしたメンデルスゾーンはその痛手から立ち直ることができず、度重なる発作の末、3ヵ月後、38歳で、オペラ《ローレライ》とオラトリオ《クリストゥス》を未完で残したまま、脳卒中で亡くなった。 メンデルスゾーンは生前は他に例を見ないほど崇拝され、神格化さえされていた。その気質は、当時威勢の良かったロマン派とは一線を画し、同時代のどの作曲家よりも、明晰さ、優美さ、職人的な技巧に重きを置いていた。親友のロベルト・シューマンは彼を「19世紀のモーツァルト」と表現している。しかしメンデルスゾーンの芸術には、古典派とバロック派に共感しながらも、ロマン派的な側面も存在している。