フランツ・シューベルト
作曲
1797 — 1828
リストによって「最も詩的な作曲家」と評されたフランツ・シューベルトは、典型的初期ロマン派の作曲家となった。多作で、ほとんどすべての主要なジャンルの音楽を書いた彼の歌曲は1世紀以上にわたって比類のない基準であり続けた。その短く輝かしい生涯のほとんどを過ごしたのはウィーンの街である。31歳という若さでこの世を去った彼の生涯は感傷的な神話をさまざま生んだが、真実はより暗く複雑なものであった。生前シューベルトの名を知らしめていたのは歌曲や合唱曲、ピアノ小品である。
シューベルトは幼少期から自身の才能に気づいていた。兄のイグナーツにピアノを教わったがすぐに追い抜き、自らの道を歩む意思を兄に告げた。シュテファン大聖堂の聖歌隊では高音域のスターとなり、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの音楽に親しんだ。初期の交響曲、ミサ曲、弦楽四重奏曲は、10代の頃、大学時代、そして父の学校の教師を渋々引き受けていた頃に作曲された。これらの作品は必然的に、彼が尊敬していたウィーンの巨匠たちの響きに満ちている。ハイドンの《天地創造》、モーツァルトの《魔笛》とト短調交響曲K550、ベートーヴェンの交響曲第2番と第7番は特にお気に入りであった。1816年の交響曲第5番は、モーツァルトへの明確なオマージュである。器楽では伝統を重んじたが、歌曲の分野では、ほとんど先例がなかった。あったのは新ドイツ・ロマン派の詩の豊かな刺激と、フォルテピアノの急速な発展による暗示的な力であった。17歳で作曲した最初のゲーテ作品《糸を紡ぐグレートヒェン》は、世界で最も情熱的な歌曲のひとつであり、その延々と続く伴奏の進行は、回転する糸車を連想させると同時に、グレートヒェンの恍惚とした興奮の色合いの変化も思わせる。
1815年から1816年にかけて、シューベルトは250以上の歌曲を作曲した。その中には、躍動的で大胆なハーモニーの《魔王》や《御車クロノスへ》、民謡風で繊細な《野ばら》など、ゲーテに影響を受けた名曲がある。1817年には、シラーやマイヤーホーファーの新古典主義の詩を用いた《みずから沈み行く者》や《タルタルスの群れ》により黄泉の国でもがく脅威的魂のビジョンに触れ、壮大な世界へと新たな一歩を踏み出した。同年出会ったバリトンのヨハン・ミヒャエル・フォーグルは当初、弱冠20歳のシューベルトを見下す態度をとっていたが、間もなくウィーンのサロンにシューベルトを連れ、共にシューベルト作曲の歌曲を演奏するようになった。
モーツァルトと同様、シューベルトの貧困神話は根強く残っている。裕福でも定職につくこともなく、しばしば友人の厚意に頼らざるを得なかったが、富と名声は歌劇場の仕事以外では得られない、と彼は知っていた。1818年までにはフォーグルが宮廷歌劇場から一幕ものオペラ《Die Zwillingsbrüder》の依頼を取り付け、1820年頃からは歌曲やピアノ曲の作曲家としての名声を急速に高めていった。1820年頃から歌曲やピアノ曲の作曲家としての評価が急速に高まった。死の間際には複数の出版社がシューベルト作品の獲得を切望し、交渉が進んでいた。数年にわたり、シューベルトの創作活動はオペラ中心となっていたが、演劇的センスの欠如と日和見主義が命取りとなり、ウィーンはロッシーニに心酔することになる。1823年、大作オペラ《フィエラブラス》が宮廷劇場から拒絶されると、シューベルトのオペラへの希望は幻滅のうちに打ち砕かれた。やがて梅毒で重態となり、手紙にも運命論的なニュアンスがにじむようになった。1827年作曲の終始殺伐とした《冬の旅》にはシューベルトの友人らもショックを受けた。しかし、シューベルト自身からすると、彼の最後の年である1828年は創作エネルギーが驚異的に満ち溢れた年で、ピアノ二重奏のためのヘ短調幻想曲、ハ長調弦楽五重奏曲、最後の3つのピアノソナタ、詩人のレルシュタープとハイネを題材にした歌曲群などが誕生した。こうした深遠かつ不穏さも漂う傑作に加え、和やかさを感じさせる作品や洗練された形式による作品も作曲していたシューベルトだが、これらの作品の完成後、数週間のうちにこの世を去っている。