ドミトリ・ショスタコーヴィチ
作曲
1906 — 1975
1906年にサンクトペテルブルクで生まれる。1919年から1925年まで、生地の音楽院でグラズノフに師事する。作曲科の卒業作品として交響曲1番 (1925年) を書くが、この作品は伝統的なロシア音楽の手法を踏襲している。その後、実験的な試みを始め、交響曲第2番 (1927年)、第3番 (1929年)、歌劇《鼻》(1928年)、《ムツェンスク郡のマクベス夫人》(1934年)など、独創的な作品を生み出していく。
しかしショスタコーヴィチの作風は、時代に翻弄されることになる。1948年にはハチャトゥリアン、プロコフィエフと共に「ジダーノフ批判」の対象となり、レニングラード、モスクワ両音楽院における教授職も解任される。この結果、前衛性を抑え、社会主義リアリズムに即した曲を書くことを強いられるようになった。同時期の作品は、共産党礼賛のために、ロシア革命を主題としたものが多くなっている。
またこの頃から、ユダヤ音楽への関心が強くなる。交響曲第5番 (1937年) や第7番(1941年)、ヴァイオリン協奏曲第1番 (1948年)、「24の前奏曲とフーガ」(1952年)などには、ユダヤ音楽からの引用がみられる。
スターリンの死後は、活動環境がやや改善され、封印していた交響曲第4番などの初演が行われた。
晩年になっても創作力は衰えることなく、弦楽四重奏曲第11番 (1966年)、交響曲第14番 (1969年)、映画音楽《リア王》(1970年)などを相次いで発表している。
1975年に、ヴィオラ・ソナタを完成させると、体調不良から入院。モスクワの病院で、肺がんのため死去した。