ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー
作曲
1840 — 1893
中流階級の両親のもとに6人兄弟の2番目として生まれたピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは、公務員になることを期待されていた。しかし、新設のサンクトペテルブルクの帝室ロシア音楽協会の第一期生となり、グリンカのロシア音楽とベートーベンやシューマンのドイツ音楽が融合したスタイルを確立すると、急速に成長を遂げた。師であるアントン・ルービンシュタインは、彼が最初の管弦楽作品としてアレクサンドル・オストロフスキーの戯曲《嵐》に忠実に作曲した派手な演奏会用序曲を認めなかったが、ルービンシュタインの弟ニコライは、若き作曲家チャイコフスキーを、和声の教員として、モスクワに開校したばかりの音楽院に招聘した。チャイコフスキーはモスクワで交響曲第1番《冬の日の幻想》を作曲した後、ロシア民族派の旗手ミリー・バラキレフに出会い《ロミオとジュリエット》幻想序曲の構想を提供する。チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番が初演された1875年は、彼が初のバレエ音楽《白鳥の湖》の委嘱を受けた年である。彼の知名度に反してバレエはすぐには成功せず、彼が最初に得意としたのは劇場音楽であった。
《白鳥の湖》の初期の観客は、その前代未聞のシンフォニックなプロポーションと情感の深さに戸惑いを覚えたという。チャイコフスキーの最高傑作のひとつであり、サンクトペテルブルクの帝国バレエ団のリソースを活用して上演された《眠れる森の美女》でさえ、生前は批評的成功を収めただけであった。しかし最後のバレエ作品となった2幕構成の《くるみ割り人形》は、そのきらめくテーマを紹介する組曲が事前に発表され、人気を博した。
チャイコフスキーは、政治的には保守的であったが、国際的な社交家であり、男女の友人や恋人がいた。ソ連では、チャイコフスキーの宿命論、哀愁、セクシュアリティは都合よく見過ごされ、文化関係の役人らは当時の他の作曲家たちに彼の音楽を手本にするように促した。また、同時代の欧米の音楽学者たちは、彼のバレエ音楽が持つ華麗さと豊かな魅力に疑念を抱き、彼を高尚な思想に欠ける存在とみなしていた。彼の最後の交響曲である第6番は、絶対的傑作と呼ばれ、伝統的な音楽構造を覆し、前例のない力強い表現のをするという作曲家の意志を具現化したものである。中核を成す2つの楽章は単なる余興ではない。第2楽章は4分の5拍子の踊りに適さないワルツ、続く第3楽章は奇跡的な行進曲である。敗北のうちに終わる緩やかなフィナーレは、独創的な発想の勝利である。このような絶望的な結末を迎える作品はかつてなかったが、20世紀には、多くの作品がこれに続くこととなった。